みうらうどんでお腹を膨らませた私たちは志村くんにご挨拶をさせていただき、そして、さて、どこへ行こうか・・・。
「ふんわり富士吉田へ行く」ということで、何の計画も立てないまま来てしまった私たちは、さてこれからどうしたものかと。
で、けっきょく自然と足が向いたのは月江寺方面。
いつもお世話になっている富士みち沿いにある小さな市営駐車場に車を止めて、小室浅間神社へ行くことにしました。
娘があの猫さんにまた会いたいと。
が、しかし、今回は会えませんでした。
志村の化身だから、チャイムの頃にしか会えないのかも。なんてね。
でもその代り、今回は神馬さんが馬舎から出て来てくれまして
私たちの前で口をもぐもぐしながらずっと佇んでらっしゃいました。
撫でたくて仕方なかったけど「馬に噛まれないように気を付けてください」の注意書きがあったので、我慢しました。
志村くんが小学生時代遊んでいたという小室浅間神社。
とても居心地が良いのです。
神社の隣には、志村くんが卒業した下吉田第一小学校があります。
この日はちょうど下校時刻と重なっていたようで、道行く小学生の姿が温かい町の風景を創り出していました。
あと、今回は参道でこのような桜の木があったことに気が付きました!
桜の木にこのようなコブ、初めて見ましたよ。
そして娘はこの♡には大した関心を示さず、
「桜が枯れた頃。桜が枯れた頃だよ、これは、この感じは。」と、狭い参道に並んだ桜の古木が葉を散らしている様を見て、そう言うのでした。
フジファブリックのデビュー曲『桜の季節』の歌詞にある「桜が枯れた頃」という表現は、ちょっとどう捉えてよいのかわかりません。
桜の樹木本体が枯れたのか、
それとも、秋になって葉を落とした様なのか。
このとき娘が気付いたとおり、苔が付いたり割れが入っていたりの桜の老木が葉を落とした姿は、「枯れた」という表現がしっくりくる気がします。
思えば「枯れた」という表現は植物の死を表すだけではなく、深みが増したり円熟したりの表現としても使われますね。
志村くんがどう意図して「桜が枯れた頃」という表現を用いたかはわかりませんが、
楽曲『ルーティーン』のレコーディング風景を写した動画では、志村くんが演奏に入る前に「わびさびにほんけいで」という言葉を発しているくらいだから、
「枯れた」という言葉には、深みが増したり円熟したりといった意味も頭にあっての上で使ったのかな、なんて想像もできます。
学校の図書室の本をほぼ読破したという志村くんですし、単純でない表現を意図的にできる高い語彙力が備わっていたのも頷けます。
軽く「文学的」といった一言で済ましてしまうのはもったいなく思えてしまうくらい。俳句や和歌などに通じるような、心象風景をごく短い言葉で描写する技術と独特のセンスも志村曲ではよく感じるところです。
特に 1stアルバムは、和的センスが溢れるロックといった感じが私は大好きです。
1stアルバム、色んな意味で凄すぎる。その分析と感想だけで本が一冊書けてしまうくらいのものが詰まってますね。
あぁ、またついつい熱くなってしまいました。
今回の故郷探訪記、まだ続きます。
小室浅間神社の参道を横切って流れる川沿いの景色も秋の色。