ずっとブログを書けないでいた。
書かないでいた?
気付いたら、もう1年近くも経っていた。
今年も12月がやってきましたね。
志村君がいた頃のフジファブリックをリアルタイムで聴いていたわけでなくても、12月が来ると自然と「12月が来たなぁ」って、ちょっと特別な時がやって来たように毎年思う。
ブログはずっと書いていなかったけど、相変わらずフジファブリックを聴いていて、最近はアラモルトをずっとかけています。
たまにクロニクル。
冬が来ると、クロニクルを聴きたくなる。アルバムね。
雪のスウェーデンでの録音だからか、『ストックホルム』があまりに雪景色なせいか。
アラモルトはプレデビュー盤として2004年2月に5000枚限定で発売されたミニアルバムで、後に完全復刻盤としてFABBOXに収められたのかな?
たぶん私はそれを持っているらしい。(発売からずっと後で手に入れたから、どうやって手元にあるのかよくわかっていない)
最近改めてこのアルバムを繰り返し聴いているのだけど、
すごくいい。
フジファブリックを知って7年くらいになるのかな?
その間に、何度志村君の故郷、富士吉田(下吉田)へ足を運んだことか。
志村君の音楽と下吉田という地域性みたいなのが、すごく重なる。
風景とか情景とか、たまに言葉を交わす地元の人たちの感じとか。
特にインディーズ盤からファーストアルバムにかけての音や、音から感じられる空気感と下吉田が重なる。
それで、フジファブリックの存在を私に教えてくれた娘と二人で、毎回志村君に会いにいくような気持ちで下吉田に行っている。
フジファブリックの曲は中毒性がすさまじいと言われるように、下吉田の街も中毒性がすさまじい。
志村君が大根スパゲッティをお気に入りだったらしいM2なんて、何を食べても美味しいし、居心地が良くて、できるものなら毎週、何なら週2くらいで通いたいもの。
志村君が中学生の頃に買い食いしていたという、コロッケなどの揚げ物をその場で揚げてくれるお惣菜店の日の出屋さんの、新聞紙にくるまれたコロッケの良い匂い、なんて情緒ある温もり。もう、抱きしめたくなっちゃうもの。
そんな素敵なお店がある、陽炎の歌詞に出て来る街並み路地裏は、昭和の名残がそれはもう味わい深くて、ずっとずっとこのままでいてとお願いしたくなる。
志村君が子供の頃に遊んでいたらしい小室浅間神社には一匹の地域猫が我が物顔でいて、地域猫ですよ、地域猫。誰かが飼っているんじゃなくて、だれかれとなく面倒見ているらしくて、たまに神社の御祈祷にちゃっかり参列してたりもして。何なの?それを許すあたたかさとゆるさ。
もうほっこりしてしまいますよ。
「いつもの丘」として志村君のうたにも出て来る忠霊塔から見る富士山の、なんて威厳があって素晴らしいこと。
いつも圧倒されてしまう。そして美しさ極まれり。
そして富士吉田は水が美味しい!志村君もそう言っていたけど、本当に水が美味しい。普通に飲食店で出てくる水がとっても美味しい。
吉田のうどんが美味しいのも、きっとこの澄みきった水の力が大きいのだろうと思う。
そういえば何かの記事で、志村君のことを「音楽にかける思いの純度が高い」という表現をされていたのが、すごく印象に残っている。
たぶん同じようなことを志村君の曲から私も感じていたからだと思う。私はそれを上手に言葉にできないでいたから、その言葉に出会ったときに、それだ!って思って、記憶に残ったのだと思う。
そして私は志村君の作った音楽そのものにも純度の高さを思う。
その純度の高さというのがね、下吉田の、富士山で磨かれた水と重なるんですよ。
きりっと澄んだ水はただ何もせずにそこにあるのではなくて、時をかけて幾層にも重なった溶岩を抜けて湧き出しているわけで、志村君もそんな風にたくさんの努力を重ねてきただろうことが、音楽から伝わってくる。
そこに押しつけがましさはなく、ただただ自然とそこにあるように在る。
そんな下吉田の澄みきった水の純粋性、下吉田の街にある昭和の面影の切なさとあたたかさ。
そして、ふれあう人たちから伝わる純朴さ。
そのすべてが志村君の音楽に滲んでいるように思えてならないのです。
アラモルトは、志村君の純朴さと下吉田の香りが色濃く漂いながら、なんとなくメンバー同士のちょっと遠慮がちなようでいて精一杯なような緊張感も感じられ、その洗練されていない感じがすごくいい。
洗練されていないからこそ、生身の心にじわわゎっと染み込んでくるのかもしれない。
とても貴重な音源だと思う。
再発してもらえたら、予備にもう1枚ほしいですよ。